昭和44年 9月20日 朝
第47節 「祈れ薬れにすればおかげも早いが、薬れ祈れにするからおかげにならん」
だんだん信心を頂くようになりますと、うーん、ここんところがよく分かってまいりますし、また体験の上から言っても、なるほどこの通りだというのが分かってまいりますから、「 」があったら、もうすぐ御神米、お神酒。もうこれは、私は祈れを先にしているんだとこう思います。
お取次ぎを頂いたか、お願いをしたかと、ね、ですから、信心を頂くようになると、だんだんそういうように、当然ながらなってまいりますね。ですから、薬れ祈れにするからおかげにならんと、というところなどは、まだ金光様の信心が、まだよく「 」にしてないだけ。
ほんの初心の時のことだと思うんですよね。皆さんだってそうでしょうが。「 」といったような断りは、やっぱり御神米が、ご神酒だと。まぁ、電話でもいいからお取次ぎ頂けと、いうようにですから、ここは合楽の方達は、もう皆卒業しておるような感じですね。どうでしょうか?
ところがです、皆さん祈れ薬れにしておるけれども、ね、神様を先に、信心を先にしておるけれども、おかげに、おかげも早いが仰るが、おかげが頂けない、おかげになってないという事実がございますね。
こりゃ病気のことじゃないです。もうすべてのことをそうです。もうなんというても、神様が第一主義、神様神様でいっとうのだけれども、やはり祈れ薬れにせればおかげも早いが仰る、いわゆる祈れ薬れであるけれども、おかが早いことがない。
いわゆる、おかげがそこに「 」ついておると。ね、薬れ祈れにするからおかげにならんと、もう断言的に仰っておられますね。おかげにならんと。これは、ここではそういうことでは病気も治らん、と仰ておるのではないですね。
そういう信心のない者に、また薬やら医者やらでコロッといっぺんに治っていきよります。ね、だから、薬れ祈れにするからおかげにならんと仰るのは、その病気が治るとか治らないということじゃないと思う。思うですね。
このおかげにならんというのは、信心にならんと。言うていると思うんですよ。もっとその、おかげというのは切に願えと仰りますけれどもね。まぁ、それにできとうかどうか知らんけれど。
昨夜、合楽会でしたが、合楽の「 」の前に、久富勇さんの奥さんの姉さんが、先日亡くなられました。ちょうど五十日にあたります。それで、えー、「 」と同時に五十日祭を仕えてほしいということでございました。
前々からお願いしてございましたから、昨日そのお祭りをさしてもらいました。私はあんな祭りが初めてでした。遺族の者が願うというのは、ね、どこでもいい、当たり前ですけれども、遺族じゃない兄弟のご主人が、あの、お祭りをしてくれと言うんですからね。
しかし、私は本当に思いました、金光様の信心とはどういうふうにならなければ、金光様の信心にならんのか。金光様の信心とはと。頼りにならんかったら、この話をしたら、はぁー、金光様の信心とはそういうようなものかと、分かるだろうと私は思いました。
ね、ご兄弟が医者から、まぁ言うならもう宣言されられた。それから、その前もずいぶん信心を進めておられましたけれども、なかなか先生になられない。なんていうことを聞いて、やはり死刑の宣告を受けたような思いで、毎日、意気消沈しておられるのを見て、とにかくお参りせろと。お願いせろと言うて、まぁ、お導きをされてお医者にかからなくて、お医者はもうこれは手術しても全然ない寿命だからと、言うとりますしたがね。
それでも本人は、やっぱり手術をしようということで、手術をしました。ところがもう、お医者さんがたまげるように、手術が順調である。そのお医者さんが思っとるしにないようなおかげを頂きました。
それでも、そのやはり、信心をするし、神様って言うて毎朝「 」なかなか神様に一心に縋っていくことができませんでした。だんだんおかげを頂きましてね、まぁ、お姉さんからも、まぁ、お参りされましたけれども。
それから、まただんだん悪くなられましてから、ちょうどこの間の五十日。昨日、五十日祭でしたから、五十日祭の前に亡くなられたわけです。
「 」をしたけれども、金光様のご信心をお話ししてあげたけれども、金光様の信心が分かられんままに、神様が分かられんままに、お国替えのおかげを頂かれたという。
ね、ところが久富さんとしては、ね、御霊様になられたからというて、おかげを頂かないかんのだと、御霊様も助かってもらわにゃ、助けてもらわにゃならんと。ね、それでやはり御霊も、親先生のお取次ぎを頂いてお祭りをして欲しいということであった。
私、本当に思うんですけれども、本当のお導きっていうのはそういうもんじゃなかろうかと。ね、お導きということは、その人が助かることのためにお導きするのでしょうが。お導きしたばってん、おかげ頂ききらんかったけんやめたじゃなくて、またはお導きをしたけれども、とうとう亡くなられたからそれまで、じゃなくてです。
本当のお導きということは、その人が助かるということなんですね。ですから、やはりあの、お導きをして、そして、あの神様がよく分からない。信心とは結局、神様が分かるということですからね。
おかげを頂いておるから、神様が分かるっていうのじゃ、まだ分かっておるはずはないです。「 」のようになるから、はぁー神様っちゃありがたいというのでは、まだ信心のありがたいっていうんじゃないです。
信心が分かれば、神様が分かれば、ね、右が左になっても、左が右になってもありがたいのであり、ね、「 」と分かれば、全てがありがたいと、分かるときはじめて神様が分かったということが言えるのだと思うのです。
だから、その神様が分かられるまで、ね、お導きをしなくてはいけない、分かられるまで、お導きしなくてはならない。もう死んだからそれで、仕方のないということはない。死なれなくても、亡くなられたからというても、御霊様が助かってもらわんならんというのが、昨日のお祭りになったわけですね、遺族「 」、御霊の真心一杯で、純粋なそういう気持ちで、今日のお祭りをされました。
ね、金光様の信心はそういう生き方になることが信心なんです。金光様の信心はどういう信心か、ね、実意丁寧というには、私はそこまでいかなきゃ嘘だと。ね、お国替えを頂くまでは、ね、あげんいうけれども、神様のおかげっていうても、これだけ「 」が反対しておるのに、「 」でいかんもんが行くもんかと思っておった本人が、御霊様になったとたんに、ああやっぱり、勇さんが言いよったように、魂の世界があったことに気付かれたことであろうと思う。
ね、魂の世界に入られて初めて、魂の世界ある。やはり、神様のおかげを頂かなければということが、分かられただろとこう思う。けれども、やはりそれを導くものがいなければ助からない。
ね、そこで御霊様になられたそのお姉様をいわば、昨日の五十日祭、御霊洗礼は、洗礼祭は、その生前は神様が分からなかった姉さんを、亡くなられてから初めて、神様のおかげを頂かなければということを分からせられ。それを、分からせられたじゃななくて、導かれた。
助かりのいわば、あー、きっかけを作ってあげられたのが、昨日のそれだったと思います。ね、ここまでやはり、導かしてもらわにゃいけん。ね、それが本当だと。そうしなけば、悪いのが金光様のご信心だとなるようになる。
そのことを神様に、あの、お願いさしてもらったら、祈りましたら頂きましたのが、わらびのしっていうのようなね、とこ。わらびのし、のしを付ける、のしですね。そして、御理解にですね、えー、捧げ合うということ、捧げ合う。
これはもう、尽くし合うということをよく申しますけれども、お互いが尽くし合わにゃというけれども、尽くし合わなとは違うですね。一生懸命尽くし合う。これも美しいことですけれども、捧げ合うの方がもっと素晴らしい。
相手に自分というものをお供えするようなもんですからね。親が子に、子が親に尽くし合うんじゃなくて、金光様のご信心は捧げ合うの生活じゃなからないけないのです。妻が夫に、夫が妻に捧げ合う、それが金光様の信心をさしてもらう者の、本当の夫婦、夫婦生活であります。ね、だからこういう捧げ合うという、ここんところからね、おかげの頂けないはずは絶対にないですね。
その御理解を頂いてから、またお礼をさして頂きよりましたら、そのワラ胞子がね、そのワラビがだんだん開いていくところを頂いたんです。ワラビが開いてしまいますと、あのシダになってしまいますね。
ワラビ、そのあのまましとらんです、こんなしとらん、だんだん開いていって、いわゆるここでは、ここあたりではシダゴロと言います。いよいよシダゴロになってしまうんです。シダというのは、私そん時に初めて、このお互いが捧げ合うという心の時に、おかげが受けられるのであって、ね、それがシダになったら、シダということは、まぁ死んだ田と、混じって考えてみたらいいと思うんです。
いわゆる不毛の地なんです。どんなに種をまいても伸びきらない。花も実も咲きも、何もしないということなんです。ね、例えば夫婦生活、初めの間は本当に捧げ合うような生活でけております。
ね、私のあなた方の、私というような、その生き方で行きますから、波風も立ちませんのです。けれども、例えば、ちょっとあればしてくれんか、家内に言っても、あなたがしなさい、私が忙しかけん。もう捧げ合わないわけです。
ね、だんだんワラビが広がってきた。ね、いわゆるシダになってきた。そういうことになってきますから、おかげが受けられない。祈れ薬れから、薬れ祈れにかえって逆戻りしよる。
祈れ薬れだってもうしますようにね、合楽のご信心を頂いておられる、朝参りをしておられる、信心のけいこをしておられるというほどしの人ならばです、この47節の言葉に出ておるこのことだけですね、絶対薬れ祈れなんていうことはないと思うんです。
そんな人はないと思うんです。もう手もつけられんようになったけん、お医者行かんかといったようなことじゃない。すぐちょっと風邪引きゃ、さぁご神酒、御神米頂け、お取次ぎを頂いたか、とさぁ「 」の場合は電話ででも、お取次ぎを頂いてからと、もうここはだから、いうなら誰でもできとうわけです。
ね、けれども、薬れ祈れにするからおかげにならんと。ね、薬れ祈れにするからおかげにならんと。祈れ薬れにすればおかげも早いがと言うておられるけれども、確かにそういうところは合楽の人達は分かって、祈れ薬れにしておるけれども、おかげが早いことはない、胃がもたついているところにです。私は、思いを置かなければいけないと思う。
そして、分かっておるならば、祈れ薬れがですね、実質の上において、薬れ祈れになっておるんだということです。ね、だからおかげにならん。お道の信心をさしてもらいよる者は、このように実意丁寧にならなければならない。
これがお道の信心なんだと。これがお道の信心の証明だと、実意丁寧は習うておるけれどもです、その実意丁寧を途中いい加減な、中途半端なところで終わってしまうと。ね、それで、お導きをしたけれども、とうとう神様が分からんようお国替えになられた。
だいたいここ「 」までできるごたぁ。私はいつも高橋さんの、生き方に感心することが一つある。それが、あの従業員の方達が、新しい「 」の子達が入ってまいりますと、必ずさのたびにお届けがある。
また、お届をし続けられる。そしてそれが今度は、あー、出られる場合がある。もうそれこそ、後に砂はきかけるような出かたをすらがある。けれども、必ずその時にですね、その人が立ち行くようにという、これは特別の願いなさりますですね。
もう自分方に砂、後側に砂かけるような出かたをする、その店員が店員の上にもです、ね、その人が「 」を離れましたが、その人がああいうことでは、もう立ち行くことは思われません。どうぞ出た後も、この人が立ち行くようにと、これはしかも特別のお取次ぎを願われます。
特別というと、また本当に特別です。今まで入ってきた時に願ってきたようなものではなくて、もっと特別なお取り次ぎを願われます。
私、金光様のご信心がやはり育っていかないと、いけないと思うんですよね。ただ自分げにおるだけは願うてやるっていったもんじゃない。そこに縁というものができたんですから、その縁をいよいよ大事にしていくことのために、そのような生き方。
ね、勇さんの今日の姉さんの洗礼であり、または、五十日祭なんかも感じます。お導きをしたと、毎日毎日ずっともう、姉さんのために「 」をなさいました。それでもですね、まだ「 」も神様を分からせることができなかった。
本物の神様を分からんなりにしまえた。けれども、それは実に、神ながらなお国替えだったですね。こん願いが、願い込んでおられますもんね。久富さんの「 」が。私は願い込むということを、天理教で申しますそうですがね、ああいう生き方が願い込むことだと思いますね。
最後の最後まで願い込んでいく。ね、ですから、そりゃあもう、特に神ながらお国替えだったとですよ。ね、そして、お国替えをされたとたんに、これは私の想像ですが、御霊の世界に入られて、初めて、ね、神様が分かられたのではなかろうかと私は思うのです。 ね、私は、あの、昨日、初めてあの御霊祭りをします時に、「かいひょう?」いたしますね、「かいひょう?」いたす中に、「ひもるひ?」っていうのが、小さい紙の短冊のような、切って下げてある。あれによって昇天するというか、御霊、昇天するってわけですね。と言われております。
こりゃまぁ、神道から来た形式ですけれども、私はけど初めてですね、もうほんな瞬間ちらっとですね、もう「 」ではっきり、あの縋って霊社の中に入られる、御霊様を、もう本当瞬間でした、目をこする暇もないぐらいに瞬間でしたけれども、思わして頂いたんですけれども、本当こうおかげを受けられたな、とこう思います。
ね、あれがあのまま、どうでしょうね、お国替えのおかげを頂かれるまでは、最後の最後まで願うたけれども、あとを願いこまなかったら、ね、これからの御霊の助かりも、御霊が信心によって力を受けていくことも、恐らくできないことであろう。
人間の生身を持った世界じゃないから、ね、もう魂の世界にあるから、そのことは早く分かられるのじゃなかろうかとこう思います。ね、人間、お国替えのところまでは神様が分からんなりに、金光様と言わんのと言うけん、金光様と唱えた、何年か参ってもみた。 ばってん、そげん神様って何でん「 」病気治してもらうことばっかり、そげんなんことばっかり頼まん、というのがお参りされない理由でした。
というように、神様が分かられなかった。けれども、お国替えのおかげを頂かれて、初めて神様が分かり、しかも、その神様の、いよいよ金光大神のお取次ぎを頂いて、これからも位も進まれる、信心も進まれる、いわゆる段取りをつけてあげられなさったんだ、というふうに思います。
ね、けどどういうことだったろうと私は思うんです。ね、実意丁寧神信心ということは、私、行き届くということだと思うんですよ。ね、そこに、私は薬れ祈れを感じます。
ところが私どもは、薬れ祈れってことが分かっておる。例えば、これが一つの病気である場合は、もう、さぁ、どうかあると、頭痛か、はよ治しとは言わん。ね、はぁー御神米としか言わんでしょう、皆さん。
だからこれは、いかにも祈れ薬れでございますけれども、けれども、あれでおかげを頂くこともあるけれども、おかげがもたついて、いわば、おかげがいわゆる、おかげも早いが仰るのに、早くないという事実を、私どもが、あー、そこに見たならば。
これはね、薬れ祈れにするからおかげにならんということに、実質の上においてはなってはいないかと、思うてみなければいけない。
ね、その前、46節に、痛いのが治ったので有り難いのではない、いつもまめなのがありがたいのぞ、とこういうところもある。ね、まめである健康であるという時には、もう当たり前のように思っておる。
ね、実はそのまめである、健康であるという、そのことがありがたいのだと、そこに、ありがたい神恩報謝の生活ができなければ、ならんのだけれども。ね、とかく信心は地を肥やせ、常平生からの信心が肝要じゃ、地を肥やし肥えておれば、地が肥えておれば、手入れせんでも、ひとりでにものができるようなもの。
日頃、信心してあるようだけれども、その信心が薬れ祈れ的なものでなくて、いや、祈れ薬れ的なものでなくて、薬れ祈れ的な信心であるところに、それがひとつも、地肥やしになっていないというようなことも、私は考えていないといけないと思う。
ひとりでにものができる、もういうならば祈れ薬れと言われる、祈り薬すらがない。いわば、さぁ御神米と言わねばならんことすらがない。「すだ先生?」が言われておられますでしょうが、ね、先生あなた病気になったら医者にかかりますか?という質問に対してから、それこそ怪訝な顔をしてから言われるんですよ、金光様の信心頂いたら病気はしませんよって、断言なさいました。
今日、私が言おうとしたところが、そこのこと。ね、祈れ薬れの前の信心がある、いかに私どもは、形の上においては祈れ薬れのようであるけれども、祈れ薬れが薬れ祈れのことになってしまっておる。
だから、おかげがもたついておるのであり、いわゆる暇がいるということになっているんじゃなかろうか。まぁ、手始めに、いわばまめであるということに、がありがたいのぞと仰る、そこんところをです、そのまめであるという事実をです、本当に事実として、本当の信心ができる。
この43節っていうのは、本当の信心を教えようということなんだと思うんですね。本当の信心ができる。そこには、地が肥えていく、ひとりでにものができていく、これが「 」先生の生き方だと思うんですね。
ね、金光様の信心しとりゃ、薬飲まれますか、医者にかかられますかって、という問に対してから、金光様の信心いただいとりゃ病気はしませんよ。ですから、そこに病気があるならばで、いわば本当の信心がちょっと狂うておる、混じ合うておるとすぐ悟らないけんと。
信心しておるのにじゃなくてから、もうしておる信心そのものが、もう信心になっていない時だと思わにゃいかんです。私、昨日、そのそうしてお祭り仕える時に、こっち左の足が、昨日、全然まったく前に動かんのです。
スリッパが履かれん、力が入らん。ね、おおこれは、明日は総会で熊本行きがあるのに、こんことじゃ、こりゃ自動車にも乗られんがと思いよりました。ね、まぁ色んなことを分からして頂いて、お願いさして頂いて、いわゆるもう「 」。「 」信心がおかしかったわけです。
ですから、そのことに、御神米、御神酒と言う前にです、言う前に、あっ信心こりゃおかしかったというところを分からして頂いて、改まらして頂くところからです、今日はおかげでまた元通りのおかげを頂いておると。
ね、おかげが早いでしょうが、それが祈れ薬れなんです。ね、薬をもってから、薬なよってことじゃないです。その、例えば病気なら病気の、事実をそこに見たらです、ね、すぐに私信心の方を、私は確かめてみなけれなば行けないと思うのです。
今日47節はですね、まぁ非常に難しく頂きましたけれども、非常に私は、これを金光教の信心のね、いわゆる本当な信心、あんたどん信心しよるけれども、本当なものでないところに、そこに難儀がある。難儀を感じる、病気がある。
もう、ただいま聞いて頂いたような、内容を持って聞いて頂いたわけですね、祈れ薬れにすればおかげも早いが、薬れ祈れにするからおかげにならん、いつまでたってもおかげにならん。
それは、あなたの信心のどこかが、ね、狂っておるんだ、間違っておるんだと、いうところを分かることを先決にするということが、祈れ薬れっていうことになるんじゃないでしょうかね。どうぞ。
佐田與一郎